建築探訪『偕楽園好文亭』@茨城県水戸市
- 園家 悠司

- 2023年5月8日
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偕楽園は徳川斉昭(烈公)の自著『偕楽園記』によれば「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」とされ、実際に毎月3と8のつく日に領民にも開放されていました。これは儒教を元とする水戸学の考え「徳治主義(人徳によって国を治める)」に基づいたものとであり、同時に列強に対する領民の一致団結を醸成する策であっただろうとも思われます。ロシア船が日本近海に現れ始めた幕末初頭において、水戸藩は攘夷運動の先駆けでした。水戸脱藩浪士による桜田門外ノ変、斉昭の子息・徳川慶喜による大政奉還など幕末における水戸藩の存在はとても大きなものでした。
偕楽園と言えば梅の名所ですが、斉昭が偕楽園造成の際になぜ梅を植えたのか。とても幕末らしい理由によるようなのです。
斉昭の「種梅記」によれば、「①花は雪の中でも先駆けて咲き、詩歌のよき題材となる。②果実には酸が含まれ、食すと人々の喉の渇きを取り、疲れを癒やす。③梅干しは保存が利き、防腐・殺菌効果もあるので、軍事の際の非常食として役立つので蓄えておくべきである。(bookstandより)」とあります。美しい花・果実の中から時代にあった実用的なものを選びとっていることがよくわかります。
今の偕楽園は、戦もなく「是れ余が衆と楽しみを同じくする」と斉昭が言った通りの景色ということになるのかもしれませんね。
偕楽園の中央、梅の古名"好文木(晋の武帝の「学問に親しめば梅が咲き、学問を廃すれば咲かなかった」という故事)"に由来して命名された「好文亭」から眺める千波湖周辺の偕楽園公園の景色は正に絶景です。













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