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形旅『不破道桃配山』@岐阜県不破郡関ヶ原町

  • 執筆者の写真: 園家 悠司
    園家 悠司
  • 2023年5月17日
  • 読了時間: 2分

原田眞人監督作品『関ヶ原』(2017)は冒頭「戦はこの道の封鎖から始まった。その時、大海人皇子が桃を配ったと言われる桃配山があれじゃ。」という島左近(役:平岳大さん)の台詞から始まります。672年に起きた壬申の乱に勝利した大海人皇子(オオアマノオウジ)が戦の最中この山で兵に桃を配って味方を鼓舞したそうです。徳川家康はこれにあやかり関ヶ原の戦での最初の本陣に桃配山を選びました。

壬申の乱とは大化の改新を進めた中大兄皇子(天智天皇)の後継者争いが天智天皇の息子の大友皇子(オオトモノオウジ)と天智天皇の弟の大海人皇子の間でおこった古代最大の広域内乱です。大化の改新で政権を奪取した後、孝徳天皇の御世で中大兄皇子は政治の実権を握っていました。そんな折、663年に朝鮮半島で同盟国の百済が新羅・唐の連合軍に攻められ、日本に救援を求めてきます。これにより日本初の対外戦争「白村江の戦い」が勃発しますが結果は惨敗、倭国(日本)は唐による侵略の憂き目に遭うことになります。これに伴い中大兄皇子は天智天皇に即位した際、667年海から近かった飛鳥宮(奈良県明日香市)から琵琶湖の南岸の近江大津宮(滋賀県大津市)に遷都を行います。そして天智天皇は自身の死期が近づくと弟の大海人皇子を呼び「次期大王はお前にしようと思う」と告げますが、大海人皇子はこれが罠であることを悟り、息子の大友皇子を薦め自身は出家すると飛鳥宮の近く吉野へ逃れます。どうやら側近であった藤原鎌足(中臣鎌足)が亡くなって天智天皇が我欲を出し始めた事によるらしいです。天智天皇が崩御した後、大友皇子は墓を作るためと人(兵)を集めたり、吉野に向けて監視を増やしたりと軍事的な態度を露わにしていきました。

これによりいよいよ大海人皇子も吉野で挙兵します。この時、大海人皇子の本拠地である領地が美濃国(岐阜県大垣周辺)であったため、東国の兵を集めると共に琵琶湖から関ヶ原を抜けて東海地方へつながる不破道を封鎖し大友皇子が援軍を呼べないようにしました。続いて吉野の近くにあった飛鳥宮及び大阪の難波長柄豊崎宮も制圧し、東と南両面から近江大津宮を挟み撃ちにした言う訳です。この壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥で即位し天武天皇となり、その後の治世を築いていくことになります。



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