形旅『昼飯大塚古墳』@岐阜県大垣市
- 園家 悠司
- 2023年5月16日
- 読了時間: 2分
濃尾平野を流れる揖斐川の西岸、大垣市不破郡には不破古墳群が点在しています。昼飯大塚古墳は中でも随一の規模を誇り全長は150mの前方後円墳です。古墳時代中期初頭の4世紀末頃の築造と推定されており、墳丘は3段築成(高さ13m)になっていることからこの地方の盟主の古墳であるだろうと考えられています。前方後円墳と言えば大阪堺の仁徳天皇陵(大仙陵古墳:全長840m)が有名で築造が5世紀前半と推定されているので、昼飯大塚古墳も同時代のものと言えるでしょう。現在は1段面が地表に埋まっており、一部が掘り起こされて復元されています。昼飯町は琵琶湖から関ヶ原を抜けてすぐ濃尾平野の入口に築かれていますので、近畿地方と東海地方を繋ぐ重要な場所だったことが窺えます。
ひるめしと書いて「昼飯(ひるい)」と読ませる珍しい地名は本来、本当に「昼飯(ひるめし)」と呼ばれていたそうです。伝承によれば、長野の善光寺と深い関係があるそうです。古墳時代後期、仏教の伝来に伴い蘇我氏(親仏派)と物部氏(反仏派)の争いで、物部氏が蘇我氏から奪った仏像を「難波堀江(仁徳天皇が難波に築いたとされる水路)」に投げ捨てました。それを後年、信濃(長野県)の本田善光という人物が拾って、信濃に持ち帰って本尊として開いたのが善光寺であります。これは『大阪史蹟辞典』の和光寺(大坂府西区北堀江)の項に記録されています。また、大垣市立青墓小学校の立て看板に「昼飯町の由来」が書いてあり、大阪の海から拾った「善光寺如来」という仏像を長野の善光寺に納める途中、昼飯町付近の小さな池のそばで昼食を取ったことにより、この地を「昼飯(ひるめし)」と呼び始め、後に呼び名が下品であると言うので「ひるいい」に変え、”いい”を省略して今の「ひるい」に行き着いたとあります。善光寺について調べたところ寺の創建が同じ内容のストーリーであり、仏像については「一光三尊阿弥陀如来は、天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済の聖王(聖明王)を経て献呈された日本最古の仏」だそうで、善光寺のご本尊として今に伝えられています。










Comments